野村 和弘<サライの落書き> NOMURA Kazuhiro exhibition 2021.10.7-10.24

撮影:坂田峰夫

インスタレーション「サライの落書き」について

レオナルド・ダ・ビンチのスケッチブックの中に、彼の下僕、サライの描いた落書きがあります(*1)。サライと名前の書かれた輪っかーアナル、に向かって歩いていくペニス、という設定のようですが、とすれば、このペニスはレオナルド自身なのかも知れません。

またサライは、無能な弟子とも言われてきました。しかし、彼がかの油絵(*2) 、を描いたその人だとすれば、なるほどレオナルドとは品といい、理解力にしてもかなりの隔たりが認められそうですが(レオナルドと比べられると、誰にしても酷と言うものでしょう)、それなりの習熟度にあったかどうかは、見る人に委ねられるところです(「モナ・リザ」が存在してのこととは言へ、ポストモダン的には、面白くさへ感覚できるのではないでしょうか?ちなみに、レオナルドの弟子で、成功した人はいません)。

レオナルドは、この落書きに気付いていなかったのでしょうか?気付いていたとすれば(怒った?、怒らなかった?)、どうして消さなかったのか(彼のような人が、知らなかったとするのは不自然な気もします。消すのが、面倒だった?消そうと思っていて、忘れてしまったのか?、紙が汚くなるのを、嫌ったのかも知れません。むしろ、その落書きを、そのままに取っておきたかった?写実を超える可能性さへも?)?

レオナルドは、人間の体はすべて美しい、ただし性器を除いては、と考えていたと聞きます(大人の性器を写実的に描いて、美しくとは、なかなかいかないのではないでしょうか?)。サライの描いたペニスは、コミカルで、その行為を否定する雰囲気を少しも感じさせません(もちろん、当時、同性愛は重大な犯罪でした。それなら、不利な証拠となるものには、慎重になって当然ではなかったでしょうか?受刑をまのがれたとしても、レオナルドがその種のことで、公に告発されていたという記録も残っています)。

誘いだったのか?、からかいなのか(このような戯れが、その行為そのものより楽しく感じられる場合も少なくないのです。輝くような、幸せな時間を、あるいはそういう時間が存在するということを、鮮やかに思い起こさせてくれます)?

ペドロ・アルモドバル氏の映画「オール・アバウト・マイ・マザー」に、妊婦で、しかもそれが原因でエイズに感染した、うら若き尼僧役、ペネロペの(ことは深刻です。自分のみならず、母子感染すら疑われてくるのですから。にもかかわらず)、ペニスという言葉を聞くと興奮する、と告白して、その恥ずかしさに顔を手で隠しながらはしゃぐ乙女的、女子会的なシーンがありますが、そういうことだったのではないでしょうか?

野村 和弘

*1

*2