水戸部七絵×野村和弘 展 2024.4.25-6.23 / nn-3 水戸部七絵×野村和弘 〈new nobility | 新貴族主義 光へ!〉MITOBE Nanae × NOMURA Kazuhiro Exhibition 2024.6.6-6.23

撮影 : 若林勇人

Artist : 水戸部七絵
Title: NEW PLASTER STATUS – BUtUS –
year  : 2024
Material  :oil on plaster statue
Size  :h1050 x w650 x d330 mm
Photo by 若林勇人

Artist : 水戸部七絵
Title: NEW PLASTER STATUS – VeNUS –
year  : 2024
Material  :oil on plaster statue
Size   :h500 x w220 x d330 mm
Photo by 若林勇人
Artist : 水戸部七絵
Title: NEW PLASTER STATUS – Lavolt –
year   : 2024
Material  :oil on plaster statue
Size :h580 x w300 x d350 mm
Photo by 若林勇人

Artist : 水戸部七絵
Title : Falling Man, Hand 2
year  : 2024
Material  :oil on wood and plaster
Size :h3160 x w530 mm
Photo by 若林勇人
Artist : 水戸部七絵
Title : Falling Man, Leg 1
year  : 2024
Material  :oil on wood and plaster
Size   :h4250 x w850 mm
Photo by 若林勇人
Artist : 水戸部七絵
Title: Falling Man, Leg 2
year   : 2024
Material  :oil on wood and plaster
Size :h4250 x w850 mm
Photo by 若林勇人
Artist : 水戸部七絵
Title:Black Man
year: 2024
Material  :oil and plaster,linen on wood
Size  :h350 x w150 x d120 mm
Photo by 若林勇人

Artist : 野村和弘
Title: 24個のネックレス
year   :  2023
Material  :人工パール、テグス
Size    :可変
Artist : 野村和弘
Title: 39個のネックレス
year   :  2023
Material :天然石グリーン、テグス
Size  :可変
Artist : 野村和弘
Title: 43個のネックレス
year :  2023
Material  :天然石アラカルト、テグス
Size :可変

Artist : 野村和弘
Title: リング・チェーン
year : 2024
Material  :リング、マルカン
Size     :可変
Photo by 若林勇人
Artist : 野村和弘
Title: リング・チェーン
year      :  2024
Material  :リング、マルカン
Size          :  h110 x w157 mm

Artist : 野村和弘
Title: リング・チェーン
year      :  2024
Material  :リング、マルカン
Size          :  h110 x w157 mm
Photo by 加藤健
Photo by 加藤健
Photo by 若林勇人
Photo by 若林勇人
Photo by 若林勇人
Photo by 若林勇人
Photo by 若林勇人
Photo by 若林勇人
new nobility  |  新貴族主義 光へ! 

前提、2つのベクトル(私的なeメールを代用して)
先日は、どうもありがとう!この機に集中して-*1、私の作品を見てもらいましたが、楽しんで頂けたでしょうか?やっとチューニングできた、と言う人もいたのです。最後の21gで話した中で、アルマスgでの展示作品、「1/973 」(2002)-*2について指摘されたことが、そのままになっていました。ここに、返答しておきます。チェックください。
*1
2023年2ー4月。アルマスg(HARMAS GALLERY)と、21g(gallery21yo-j)1、2期、計3つの個展において。
*2
小さな、動物フィギュアの不良品(別作品のために、いろいろな動物がミックスされた徳用袋入りで、千個を超えて求められた中に発見された。プラスチック形成剤の、注入不足から?脚もなく、一様にぬるっと丸まった、何の動物になるはずだったのかさへ識別不可能な)を型取りして、14金無垢で鋳造形成した作品。ガラスシャーレに入れて展示。

https://msp.c.yimg.jp/images/v2/FUTi93tXq405grZVGgDqG_omiYkNVym1Sd6g5T38MuSL_lrnpPsWfCXE3LCt-U_HFh5L39aKJvRBj574poZZFB5wbOVVyR6LQtqyD2SLGtib7x1WUAeD29ACvhKcewO1k-baHAZ1l_1PZ5kvq0tVKvzXLBLfNMrOY6rxZvsc5louJMgKbztEa8GMg56cK1z6QhbPzeW4SCBy7i-A9Tu51olxhtAMw3sUAWTBZyTPyKkASuUQAtWl8taGAVzp726M/Fptn0S7agAAkVzg?errorImage=false

 
不良品が求める「金」、ということで言えば(この作品に「金」を使用したことが)、いわゆる完全品(以下、不良品の対語として使用)が求める「金」と同じもの(の使用)である以上、完全品の価値感に迎合するような意味合いとなってしまわないか?、ということだったと思います(せっかくの?、不良品が求める「金」が、完全品の求める「金」と同じでいいのか?また、そうだとすると、この作品には、十分な姿が与えられていなかった、ということにもなりかねません)。
これは、確かに、なるほどと思わせられる指摘で、ハッとさせられました。だとしても、そのすべてが、完全品の価値感で意味付けられてやしないか?、と懸念されてもきたのです。
まず、不良品が見る世界と、完全品が見る世界は同じなのか?、と問うてみましょう。それが、同じであれば、上での指摘には信ぴょう性があり、不良品が「金」を求めることが、完全品への迎合として捉えられるというわけです。そうであれば、ここには、完全品に対する不良品のルサンチマン(妬みの念)、不良品であるがゆえに完全品になりたい、という満たされない欲求が隠されていたことになります。この場合にはもちろん、不良品として見る、という望みが叶えられることはありません。
そして、不良品が見る世界と、完全品が見る世界が同じでないなら、同じ側面としての「金」を、その両者は見ていたのか?、と問うことが可能とされてくるはずです。
完全品とは、何か?唐突に言うと、それは、存在しないものではないでしょうか?一般、と言われるような分類での存在?マジョリティー?これは、自分を顧みない人の幻想の産物であり、折に触れてでも自分を覗いてさへいれば、気が付くこともできたはずなのですが。この私が、不良品?そのことを自覚することは、より覚醒した態度ではないでしょうか(それを認めることに、にわかに戸惑いや、抵抗が生じうるとしても)?つまり、不良品となる方向に、成長のベクトルがあるのであり、その逆ではありません。ここに言う不良品とは、完全品となることを目標としているわけでは決してなく、完全品から不良品へと進み、そのベクトルのより先に向かおうとして働くのです。自分が不良品であることを疑ったことがなければ、薄々には感じていたとしても、見ないようにしてきたのか?いずれにせよ、そのことに対する無自覚な、感覚なき態度(不感症的な、感覚する器官を麻痺させた、感度の鈍い)こそが、完全品ということであり、自らを完全品として見る、また完全品として何かを見る時には、いつも大きなバイアスが掛けられていたはずなのです(集団的な、同じ価値感への傾倒、洗脳状態?赤い人が、赤い人たちの集団の中にいても普通で、その赤さについて意識することはまずありません。中からの目で、その特殊性に気付くことは、言うほど簡単ではなかったのでしょう)。
そのバイアス込みの目で見れば、「金」は、権力や、富の象徴だった(今日における、普通の価値観として。俗、と言いえる?権力や、富を持つこと=幸せ、そのことこそが、人生の目的、として掲げられるというように。その言葉の使用頻度が、減ってしまった?隅々にまで蔓延して、空気状態?、意識する必要もないくらい当たり前になったから?俗、であることの可能性や、それに付きまとう後ろめたさまでもが、なきものとされたのではないでしょうか?)?
では、不良品(完全品に対する、ルサンチマンにあるのではない、より本来的に見ようとする態度としての、覚醒した)の見る「金」とは?つまり、ここでの不良品を現実に則して言えば、完全品(として、自分を見る人)の見るものより、完全品特有のバイアスに薄く、それでも未だに、純粋(ニュートラル)な目には程遠いとしても、権力や、富の象徴とは逆ベクトル(の、「金」の側面)に開かれた存在、とできるはずなのです(ニーチェの、「権力の意志」を借りれば、生命的な力強さに溢れ、生き生きと輝き、よりよくなるために流動するダイナミックな力、に導かれた?)?「金」は、希少性からも、高価とならざるえなかったとしても、その最初には、ただ、高貴なもの(noble)、だったのではないでしょうか?

アーティストの末裔として
もはや、明白なことでしょう。アートも、アーティストも、消滅しようとしています(アート分野が、存続していくだけ?)。あるいは、賢い人にすれば、単なるカテゴライズの問題だとか、時代によって変遷していくのは当たり前じゃないか!、と、簡単に片付けられてしまうのでしょうけれど。被害妄想?もちろん、それにも一理はあります。しかし、どのように考えることも許されているし、いたって勝手というものでしょう。こちらには戦う意志もなく(実際には、戦いであったとしても。初めから、こちらの負け戦、決定!、のようなものですから。断末魔にすぎない?)、すでに芸術言語ではなく、通常言語によってアートされるようになってきているのです-*3、一応としても、こういう方向に沿って考えてみてくれないか?、と、申し上げるだけのことなのですが(むしろ、ずっと未来の感受性に向けられた、メッセージ?高貴さこそが、モダンの原動力だった?いずれにせよ、今の状況とすれば、多くを学ばせてもらった、すぐれた先人たちに対してなら特に、申し訳なく思うしかないのではないでしょうか?)。
*3
この間口を広くする、という戦略は、合理主義的です。しかし、そうなれば機能しずらくなるものも、存在していたのではないでしょうか?間口が狭くとも、その中には、大きな世界が広がっている。そして、そこから入ろうとすると、独学であろうと、何だろうと、それなりの訓練が必要とされてきたのです。そんな訓練、ウザったい?時間も、労力もかかって大変なのに、上手く運ぶ(十分な、見返りがある)とは限らない。それなら、試してみることもなく(無駄となりえる可能性には、与せずに)、最初から、広い間口の方でよかったんじゃない?、ずっとそこにいたんだし(今まで学んできたことだけでも、潰せたのです。だから、ポップアートも、スライドさせて需要されるようになったのでしょう。ポップだから、ポップアート?アートは、チョロいぜ!)。そのやり方が、効率を上げさせたとしても、何にでも拡大導入させればいい、というわけではなかったはずなのです。強靭な巨大胃袋の、雑食系?分別のない子供のように、触れるものすべてに手を出して、飲み込んでしまった?さらには、消滅させても、違うものにその名前をつけて、何ごともなかったかのように装われてきたのではないでしょうか?完全犯罪?私たちが、アートを滅ぼしたって?今だって、ちゃんと存在してるじゃないか!確かに、特別なことをする必要もなくなり、みんな楽ちんでいられるのですが(しかし、それで、ウルトラ楽しめる?)。

高貴なもの、光へ!
演出でも、イメージでもなく、高貴なもの。ウルトラ楽しんだ人=高貴な人。たとえば、セザンヌ。ゴッホは、心底からの奉仕者でした。キュビズム、コラージュの、ピカソ(+ライトな彫刻、タトリンの、コーナーレリーフにも影響を与えた。それ以降は、それまでの、すぐれたアーティストたる姿勢を裏切って、そのレベルを下げていきます)。特に紙の仕事での、エルンスト。モンドリアン、デュシャン。イブ・クライン、マンゾーニ。前半のウォーホル、機械になりたい、は、署名を始める以前のアーティストを想起させてくれます。同じく、ニューヨークでの草間、すばらしくチャーミングでした(当時のアーティストたちに、多大な影響を与えたことが伺われます)。アンドレ、フレヴィン、ブロータース、ブルジョワ。イサ・ゲンツゲン、クーンズなど。この前までグッチにいた、アレッサンドロ・ミケーレは、しまわれていた玉手箱をぶち撒けました。