山本裕子 展 YAMAMOTO Hiroko Exhibition 2018.6.21-7.8

ここのところ文字をモティーフに作品を作っている。問題は、文字をモティーフにしていると、言葉に拘っている人と思われることだ。
もともとは、恣意的なフリードローイングを切り取り、それを繋ぎ合せながら恣意的な形を作り出すという所から始まっている。しかしそれを空間的に設置すると、情けない吊るしものになってしまう。吊るすなら、重力にさからわずに、重力の作り出す形に沿って作品を展開しなければ美しい形は生まれない。しかし、私は重力に逆らって自立する作品をめざした。バベルの塔を建てたい愚かな人類の一人である。
あくまで、恣意的なドローイングを繋ぎ合わせて、出来てくる平面的な形(これを私は線の集積により出来た面と思っていたのだが…)を自立させたかったが、重力に逆らうためにはそれなりの強度が必要になり、計画的に作業しなくてはならなくなり、あらかじめ設計図が必要となる。つまり、最初に出来上がりの形を決めなくてはならなくなる。まったく恣意的ではなくなってしまったわけだ。
最初に出来上がりの形を決めるという作為に満ちた方法に非常に抵抗を感じ、また自分の作り出す形が似たり寄ったりでどれも同じ気がして、何かから形をかりてこようと思った。私のドローイングは文字と似ているし文字から形を借りればその文字の持つ意味以上も無く以下も無く、私の意図の入る余地は無いだろう、アルファベットなら順列組み合わせで様々な形を作れるだろうし、漢字なら無限に様々な形を提供してくれるに違いないと考えた次第である。
この愚かな浅知恵のおかげで、私は20年近く文字に付随する言葉に翻弄され続けている。
文字は視覚情報 であり、対象を絵として捉えそれを共通認識の記号という形にまで抽象化を繰り返して得られたものである。特に漢字は具象性の片鱗を残しているものが多く、絵や立体に起こしやすい。ところが、言葉は基本的に音声情報である。目には見えない音声によって、意味やイメージが呼び覚まされるのである。
文字が言葉として機能すると、そこに実体として存在する作品は、見えなくなつてしまう。言葉に完全に支配されてしまっているのに、私の作品が必要としているのは文字の形だけですと言ってみたところで、言葉から逃げられるはずも無い。
ただ、さすがにそこに在る物というのはそれなりの強さがあって、言葉によって見えなくなったものが、またふと見えてくることも起こる。それだけが頼りであった。
最近、ちょっとした事をきっかけにワイヤーを編んで形を作り出すようになった。これは、非常に物質感の強い存在になるので、文字であることによって存在がかき消されることもなく頼もしい。そして、線の集積とはこういうものか、と思い知らされる。以前の平面に描かれたドローイングを切り取り繋ぎ合わせた平面は、切り取られた平面を繋ぎ合わせた、穴だらけの平面に過ぎず、それ以前から悩まされて来た同語反復にやはり陥っていたのだなぁと、眼から鱗の落ちる気分を味わっているこの頃である。
今の方法で、私好みの形をいろいろ作ってみたい気分に傾いている。これまで、様々な漢字を作品にしてきたが、気に入った形はわずかに「鳥」と「象」ぐらいなものであったし・・・
面白い形は、森羅万象あらゆる所から拾い集めて、抽象化していかないと、生まれて来ないものなのだと、いまさら自覚させられている。

2018/6 山本裕子