野村 和弘 展 NOMURA Kazuhiro Exhibition 2017.6.8-6.25

女 性 靴

ボ タ ン
 

展示風景 ”片方の女性靴” 2014
 
<作家コメント> 
・・・・・私がこのところ扱っているのは、イヤリング、女性靴、服飾用のボタンなどである。それらは、普通ペアかセットとしてあるもので、服飾用のボタンにしてもそれ一つだけで使用されるということは、まずないのではないか(たとえば、シャツのボタン。ただバックの留め具、ズボン、スカートのウエストの留め具などとして、単体で使用される場合もあるにはあるのだけれど。ただ、パンツやスカートのウエストの留め具の場合は、ジッパーが普及するまで、つまりもともとには複数個で使用されていたものと思われる)?では、そういう中での、片方だけのイヤリングとは何か?かつてあった安定した状態が、今はもう存在しない。それを見ることとは、その欠落自体を見ることにも違いないし、同時に以前のあり方、ペアで揃った状態での姿を見るということでもあるはずだ。しかし、その欠落も、決してネガティブなものだけとは言えないことだろう。一つの可能態としても捉えられるということ、新しい局面へと再稼働できうる幸運として・・・・(テキスト集「吃音者」の中の一編、「片方のイヤリング」からの抜粋)

・・・・ゆえに、私は、彫刻作品を作りたかったのでさへないのではないか?とも思う。むしろ、成形過程そのものに語らせる可能性から、ブロンズを素材として選んだということだったのかも知れない。あくまでも、一つの答えとして。実際、ブロンズを使用しない方法でも、同じ目的となる作品が試行されている。少なくとも、今こうしてあるということが、たんに目にできる範囲のことだけではないと気分されることは重要だ。そこに、別種のものが混入している。たとえば、金属を流し込んで鋳造する過程を、いくら専門家と言っても完全に制御できるわけではないし、専門家こそはその怖さをよく知っていることだろう、本当のところは蓋を開けてみるまでは誰にも分からない。それは、アナログ時代の写真家や陶芸家などが、共通して持っているような感覚ではなかったか?偶然に左右される余地に、依存しているということ。人事を尽くして天命を待つ、的な。そして、そこになら、世界への信頼と畏敬の念がまだ存在していたはずなのである。天使や妖精の働く場所を侵さないこと。むしろ、その類いといっしょに遊び、共生するということ。悪く言うなら不確実性、当たるも八卦当たらぬも八卦となるのだけれど・・・・(テキスト集「吃音者」の中の一編、「片方の女性靴」からの抜粋)