野村和弘 〈笑う祭壇〉NOMURA Kazuhiro Exhibition 2014.10.2-10.19

撮影:椎木静寧

 

「笑う祭壇」覚え書き2

インスタレーションの中央に配置される、鑑賞者参加のパートについて1:

これを見た時、その行為としては、太古の占いか何かの儀式、またその姿としてはモザイク、絨毯といったものが連想されるのかも知れない。

たとえばフランスのラスコー、アルタミラの洞窟絵には、動物の輪郭線をダブらせたり、岩肌の膨らみに動物のボリュームを沿わせて描いたりと、神的、宗教的な目的とそれを異にするような、遊びの痕跡を見てとることができるーそれがなかったとすると、こんなに生き生きとしていなかったに違いない。

遊びが、むしろ神的、宗教的な儀式に不可欠だったとすれば?ー遊びを不真面目な、あるいは無駄な行為のように捉えてしまうのは、今日にある価値基準からだろう。たとえば、上の洞窟絵にみられる遊びが、芸術へと発展したのだとすればー描くことの移行ではなく、あくまでも遊びが、それこそ多くのものに同じような起源が認められるはずである。それは、刺繍のようなものにしても。また、スポーツ全般も。
(テキスト集「笑う祭壇 」より抜粋)


Title  :笑う祭壇
year      :  2014
Material  :ミクストメディア

 

Title: Fucher Ⅰ
year   :  2003
Material  :  紙にゼログラフ
Size      :  h30×w242×d174mm
ED   :  15

Title: ein heimische vogel Ⅱ
year : 2003
Material :  エッチング
Size   :  イメージサイズh180×w118mm / 額サイズh404×w297mm
ED    :   10    
           

作品について-2
ここに、2000年制作の「Fucker」という作品がある。会場入口付近に並べる小品として、昔の作品群からチョイスしてきたものだ。この作品は、ゼログラフィ(フジゼロックス機によるカラー、及び白黒コピー)によって、自身の個展の芳名帳を完全再現したもので、深夜誰もいないコンビニエンス・ストアーで複写作業をしていたことを思い出す。これは、1つの個展分2冊組だが、続く2つの個展、ゆえに合わせて3個展分6冊組として同様に作られたものが、フジゼロックス社の収蔵品となっている。作品を見にきた人が、その作品とfuckingした記録として、芳名していったというわけだ。作品の体験とは、実はそのようなものなのでは、あるいはそのようにあるべきではないのか?と今も思っているし、また その頃にはもっと強力に思っていたのだと思われる。その基本には、人の作ったものに敬意を払うことへの言及が含まれているに違いない。もちろん、作り手もそれに恥ずかしくないよう努める姿勢を欠くことが許されないだろう。科学、技術の進歩により、簡単に、安く、便利にという生活が実現化され、希薄になっていく意識への警告でもあったはずだ(それが、コンビニで作られた?)。

また、人の芳名したものをそのままコピーしたわけで、他人の行為をそのまま自身の作品へと移行させている。ここには、作品に既製品を導入すること、パピエ・コレ、コラージュ、コンバインすることなどとの関連性が見て取れる。人に自身の作品の制作を、あるいはその一部を代行してもらうというような方法と言えるだろうか(今回のインスタレーションも、そうだろう)。デュシャンは、レディー・メイドが攻撃された時、絵の具もキャンバスもレディー・メイドではないかと対抗したが、その時代の、すべては0から作り出されなければならないという思い込みこそに問題があったのであり、文化にはつながり、繰り越されていく側面も隠せないように思われる。赤ん坊は、どうやって言葉を覚えたのか? ミニマル作品の後ろに、ルネッサンス作品が見えないだろうか?つまり、このような方法は当たり前にあったのであり、個人による作品、0から創作された作品という意識の始まりも、そんなに長いものではないように思われる。では、いったい何が新しく創り出されるのだろうか?・・・・2014 野村和弘